房総女の真骨頂を、津軽に見た | 衆議院議員 森 英介

房総女の真骨頂を、津軽に見た

森 英介

 五月の連休の後半、妻と二人で津軽に旅をした。三日間の短い旅程で、五所川原の「富士見ランドホテル」に二泊した。この宿は、名前はホテルだが、風情のある和風木造建築で、旅館といった方がぴったりするたたずまいである。ここの温泉は、青森県でも屈指の湧出量を誇り、また、客室の窓や露天風呂から真正面に岩木山が望める雄大な眺望でも知られている。私たちが訪れたときは、生憎の曇り空に雨模様で、そこに見えるはずの岩木山が影も形もなく、些か落胆した。しかし、三日目の朝、起き抜けに窓外を見ると、岩木山の全貌がはっきりと姿を現しており、快哉を叫んだことであった。
 さて、このホテルの社長は、野崎佳子さんという女性で、千葉県は長生村の出身である。野崎さんの弟の柴崎正臣さんは、現在、長生村の村議会議員を努めており、私の親しい友人である。以前から、姉さんが青森県の五所川原でホテルの社長をしているという話を彼から聞いていた。連休の間に、たまさかの休みが取れたので、柴崎さんに無理に頼み込んで、お姉さんのホテルを取ってもらったのである。
 野崎佳子さんとはこれまで面識がなかったが、私は、津軽のホテルの経営者と結婚し、夫唱婦随でホテルのきりもりをしていたところ、ご主人が亡くなったので、その後を継いで、社長業をしているのだと、勝手に思い込んでいた。ところが、事実は、些か異なっていた。食堂での夕食の時間帯、野崎さんは、自ら立ち働き、それぞれのテーブルを回り、客と談笑する。その折に、柴崎さんのお姉さんという気安さも手伝って、なんで、こんなに遠くの青森の方とご縁が出来たのですかと、不躾な質問をした。すると、野崎さんの答えは、次の通りだった。「いや、そうじゃないんです。私は、東京の人と結婚したんです。主人は、東京でいろいろな事業をしておりましたが、あるとこ事業に失敗し、残った財産の一切を投じてこの古いホテルを取得しました。そして、単身、津軽に移り住み、ホテルの経営に当たりました。私は、三人の小さな子供を抱えていたので、東京に残り、ずっと専業主婦を続けておりました。ところが、情熱を傾けてホテルの充実整備に邁進していた主人が、津軽に移り住んで十年目、不幸にして病を得て、志半ばでこの世を去ってしまったのです。」
 ということであったが、これから先の野崎さんの対応を聞いて、私は、ぶったまげた。ずいぶん迷ったようだが、結局、高校生を頭とする三人の子供を東京に残し、ご主人の夢を引き継ぐべく、ホテルの社長兼女将に就任するのである。主婦と母親しかしたことがない、ズブの素人の五十歳の女性が、である。伊能忠敬もびっくりではないか。爾来、野崎さんは、立派にホテルを経営してきた。今年で十有余年ということであるから、既に、ご主人より長い年月、ホテルの社長業を努めていることになる。地域の人々からの信望も厚く、今年の統一地方選では、野崎さんが後援会長を努め、五所川原で初の女性自民党県議を誕生させたそうである。
“岩木山にほれこんだ、夫の夢を引き継ぐ”
 弘前から北に向かい、藤崎、板柳を抜け、「米マイロード」を走ること三十分。五所川原市の郊外、羽野木沢の峠の上に津軽富士ランドホテルはある。
 ぐるりとガラス張りのティールームからは穏やかな表情の津軽富士を一望できる。右手には大釈迦の山並み、眼下には五所川原、鶴田、板柳と津軽の野づらが広がる。晴れた日には権現崎、遠くには北海道を眺めることもできる。「夕日が地平線にストンと落ちます。そしてこの岩木山。主人がほれこんだのはこの雄大な眺めだったと思います。」
 野崎佳子さんが東京からこの地に独りやって来て、ホテルの女将(おかみ)となって十有余年の月日が流れた。がんで亡くなった夫豊栄さんの夢を引き継ぐためだった。
 東京で事業を行っていた豊栄さんが羽野木沢の古いホテルを購入したのは一九八三年。「これからは地方の時代」と見定めた豊栄さんの決断だった。東京の自宅に佳子さんと小学生だった三人の子を置いて、豊栄さんは当時荒れ放題だったこのホテルに移り住んだという。
 「冬休みに子供を連れて来てびっくり。主人はいいとこだ、いいとこだって言ってましたが、地吹雪がものすごかった。ここはだれがやっても繁盛しない所だから自分がやるんだと夫は言い張りました。とにかく夢を追う人でした。」と佳子さんは遠く岩木山に目をやった。
 豊栄さんは津軽富士を眺めるためのティールームを作り、温泉を掘った。地域の人に能を見せたいと能舞台を建設を始めた九二年、がんを発病。一年間の闘病の後、能舞台の完成を見ることなく豊栄さんは逝った。
 「ホテルを続けようか、やめようか迷いました。主人の夢を知っていましたから、十分の一でも叶えてあげたいと思いました。」中学生、高校生と多感な年齢になっていた三人の子供を東京に残し、九三年五月、佳子さんは女将としてホテルの屋台骨を背負った。
 それまで専業主婦として暮らしきた佳子さんにとって、ここでの暮らしは戸惑うことばかりだったろう。環境の違い、言葉の難しさ、疎外感。「人に頭を下げることも初めての経験。素人ですからばかにされたり。そんな中で主人の夢だけが唯一の支えでした」と佳子さんは当時を振り返る。
 「子どもたちは、見知らぬ土地から仕送りをする母親の気持ちを理解し、横道にそれることなく育ちました。それでも母親失格だったとおもいます」と話す佳子さん。子育てが一段落したのを機に、行ったり来たりの生活に終止符を打ち、ここに腰をすえようと決心した。
 豊栄さんが残した能舞台を使い何かしたいと、昨年から「朗読の夕べ」を開催。七月には「琵琶の語る平家物語」、紅葉のころには「ギターと朗読の会」を予定している。「静かに耳を傾けてもらえる、語りべの宿を目指したいですね」
 狼野長根公園に続く傾斜地に立つここは別天地。静かで穏やかな時間が流れる。豊かなお湯がわく湯殿では、作家太宰治が「いちょうの葉をさかさまにしたような」と形容した優しい岩木山と向き合うことができる。
 「人生ってわからないもの。苦労させないからって一緒になったのに、契約違反。夫の位はいにお線香をあげながら、いつもぶつぶつ言っています」と笑う佳子さん。「津軽の土になりたい」が口癖だった豊栄さんは、岩木山の見える弘前の墓地に眠る。
 豊栄さんの夢は今、女将である佳子さんの夢となった。人生の第二ステージを津軽のこの地で、精一杯生きようと佳子さんは考えている。


陸奥新報転載